高槻城は、戦国時代にキリシタン大名の高山右近が城主をつとめたことで知られていますが、現代に残されている痕跡は、江戸時代の元和3年(1617)に徳川幕府が行った高槻城の大修築によるものです。
大修築よる高槻城は、三層の天守を持つ徳川の城でした。
天守は 明治7年(1874)に破却 され、現在その姿を見ることはできませんが、
高槻城のお堀をイメージした石垣や池は、城跡公園内で見ることができます。
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城跡公園
城跡公園の場所は、阪急高槻市駅から南に歩いて10分程度。
途中、国道171号線の「北大手」の交差点を渡ってから1㎞ほどの場所です。
お堀をイメージした石垣と池はこちら
こちらは、城内をイメージした庭園。
庭園の向こうに見える校舎は、かつて天守閣があった本丸の位置。槻の木高校(旧島上高校)です。
城跡公園は、この高校の東側に造られています。
つまり、高槻城跡の正確な位置は、城跡公園ではなく「大阪府立 槻ノ木(つきのき)高校」です。
庭園から見る高槻城は、こんな姿をしていたんでしょう。
残された写真は一枚もないので、絵で表現してみました。
高槻城絵図などから三層の天守を持つ高槻城です。
城跡公園に行ったら庭園から校舎を覗いて見てください。できればこの絵と一緒に・・・
※注:この絵はすべて私の想像図です。あしからず
他にも江戸時代の絵図を元に作られた模型より天守閣がイメージできます。
高槻城跡に建てられた高校
槻の木高校(旧島上高校)が、本丸の位置だと確定できたのは、昭和50年(1975)のこと。
体育館の改築工事で、地下5メートルの所から石垣に使われる 花崗岩(かこうがん)の石列 が発見されました。
工事はストップされ、翌年3月まで発掘調査が行われました。
昭和世代の島上高校出身者には懐かしい話です。
発掘調査の結果は驚くべきもので、検出された石列は、元和年間(1615年頃)の 高槻城の石垣と確定。
高槻城絵図に描かれているL字形の石列と 検出された石列の位置も一致 しました。
当時の写真はこちら
L字型に並んだ石列がはっきり確認できます。
この発見により、槻の木高校は 高槻城跡に建てられた高校 であることが確定しました。
まちかど遺産
発見された石垣の一部は、学校と城跡公園の間に移され、「まちかど遺産」として保存されています。
高槻城は明治維新により廃城となりましたが、石垣石の大半は明治7年(1874)、現在のJR京都線建設のため、橋梁の橋台やアーチに転用されました。
昭和50年(1975)、府立島上高校(現槻の木高校)での発掘調査で、本丸南西隅の石垣基礎が発見され、軟弱地盤での石垣築造を可能にするため、地下約5mの深さに梯子胴木などで強固な基礎を築いたことがわかりました。
また、その技術から江戸初期に築造されたことも明らかになりました。
ここに展示した石垣石には、石切り場で切り出した際の「矢穴」痕や刻印を見ることができます。
石碑の横に、発見された石垣石の石組。
現在、刻印を見ることはできませんが、「矢穴」の跡は、はっきり見ることができます。
拡大
橋梁の橋台やアーチに転用された石垣石
こちらは、「まちかど遺産」ではありませんが、現在も 橋梁の橋台やアーチに転用された石垣石 を見ることができます。
なぜか1本だけ、石垣石の橋台が残っています。